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小型マグロ漁船「ゆいさん丸」
漁船 5.1トン
船長 53フィ−ト
 装備
・GPSナビゲ−タ−
・レ−ダ−
・漁群探知機
・水中ソナ−
・無線機 1W
・自動操舵(オ−トパイロット)
・発電機  
・衛星電話 
午前3時に出港して操業後、洋上で1〜2泊してその翌日の夜間に入港する「ゆいさん丸」
 前日の釣果、30〜40キロ前後3本のキハダマグロを朝の競り市に出す作者。他のマグロや 魚は沖縄市漁協の「パヤオ直売店」ですべて販売される。

作者のプロフィ−ル

 私は1949年、千葉県の農家で5人兄弟の3男として生まれた。県立八街高校を卒業後、地もとの農協に父親のコネで就職した。しかし、1年ほどで辞め、 その後も幾多の職業に就くもののすべて長続きはしなかった。
当時は、どの会社に就職しても「雇われ人」としての枠内で収まりきれない思いを常にもてあまし、いつもくすぶっていた。その後、思い悩みながら意を決して 22歳のときにサラリ−マン生活に終止符を打つことを決め、当時1年ほど勤めていた「ホテル・ニュ−オ−タニ」の上司に辞表を出した。そして、自分が何を 求めているのか、ライフワ−クを探す旅にでることにした。

 1969年12月の暮れに、友人がアルバイトしている長野県の蓼科高原に向かった。辞表を出したその足で、東京から列車を乗り継ぎ、バスが長野県の山 奥、蓼科高原の女神湖についたのが日暮れ時だった。そのときの私の姿は背広に防寒コ−トを引っ掛け革靴という始末。あたりは氷と真っ白な雪の世界で、バス から降り2〜3歩あるいたとたん、思いっきり滑ってひっくり返ってしまった。
 こんなこともあって、この地で半年ほど旅館でアルバイトをしてすごし、その後、その年の6月に北海道へと向かった。別に何か目的があったわけでもなく、 「ただふらふらと」という表現の方が正しいだろう。

 当時はヒッピ−と呼ばれる旅人が多かった時代で、私もその一人になっていた。リュックサックを背負い、北海道の宗谷岬を出発点に、ヒッチハイクを始め て、乗せてくれる車の行き先に任せて南下することにしていた。
宿泊は、ほとんど駅の構内にダンボ−ルや新聞紙を引き、寝袋ですごした。まれに宿泊料の安い国民宿舎に泊まることもあった。時折、乗せてくれた運転手さん が自宅に泊めてくれることもあり、そんな時は、その土地の心の暖かさに触れて会話が弾んで楽しい一時を過ごすこともあった。お金が無くなると旅館などの皿 洗いなんかのアルバイトをして軍資金を稼いだ。若さゆえ、怖いものは何も無かったのである。

 宗谷岬から大雪山に登り、知床半島を廻って襟裳岬を通って函館に入り、秋田県から本州の日本海側を南下、とうとう金沢を通過して下関を通り、九州に入っ て、鹿児島県の与論島にまで来てしまった。
沖縄が日本に復帰する数ヶ月前のことである。それでもまだ私の求める結論は出ていなかった。与論島には半年ほど居た。しかし、沖縄が日本に復帰した 1972年、私は一旦東京に戻り、身の回りの整理をしてから沖縄に行くことを決めていた。やはり心のどこかに最終目的地としての思いがあったのだろう。
その時には、放浪生活を続けて2年の年月が経とうとしていた。

 沖縄が日本に復帰した年の6月、東京から列車で鹿児島まで行き、鹿児島から那覇行き照国郵船の船に乗った。それまではパスポ−トが無ければ行けなかった アメリカ領土である。那覇港に到着したのが、ちょうど朝の7時過ぎで、薄明かりの夜明けに朝日に照らされコバルトブル−に輝く海を見た
ときの感慨は、今でも鮮明に私の頭の脳裏に焼き付いている。その時の思いが今の私を揺り動かし
ているいるのだろう。
その後、那覇で3泊したのち、石垣島行きの船に乗って西表島まで行った。数ヶ月間の長期滞在をするつもりだったので、西表島に着いて最初にしたことが住む 家探しだった。


 当時、家主が沖縄本島に移住していて住み人のいない空家がかなり多かった。 この島の住民は、戦時中に戦中疎開として送り 込まれてきた人たちと戦前に琉球政府の奨励で開拓農民として移住してきた農民たちとの集合体でもあった。
 
 戦時中から戦後、不幸にも伝染病の「マラリヤ」が島を襲い、大半の住民や移住者が医療を受けることもなく、数多く病死して死散を極めた歴史を持ってい る。
その後、この島にはこれと言った地場産業も生まれることなく、当時はサトウキビとパイナップルだけに頼らざるを得ない、離島苦の持つ細々とした産業経済下 にあった。

 私の借りた家は、50坪の敷地に25坪の萱葺きの家で家賃は月3000円である、今では考えられない金額であろう。
このことからも、当時の西表島の経済状況がいかに苦境に立たされていたかを如実に表している。

  次にしたことが仕事探しである。これには1月ほどかかった。島に仕事がないのである。ようやく、当時、島の東部から西部に行く海岸道路を「南洋土建」 という会社がやっていて、どうにかそこの仕事にありつけるようになった。これも、過疎の島となっている西表島に若い労働者がほとんどいなかったためでも あった。

 当時の思い出として、島の中学校の卒業生が名古屋に集団就職することになり、数名の生徒と見送りの家族が港に集合した。春先のことである。年老いたお婆 さんやお爺さん、残される家族が孫や子との別れに目を赤く腫らしていた。沖縄が日本に復帰したとはゆえ、まだまだ日本の地は異国の思いが残っているときで もあり、私も思わずもらい泣きをしてしまった記憶がある。

 西表島で生活すること1年、その後、与那国島に3ヶ月滞在し、再び沖縄本島に戻って名護市に半年ほどいた。このときの仕事もやはり道路工事だった。
その後、伊江島に渡り3ヶ月ほど滞在した。そのときに知り合った女性が今の私の奥さんである。

 結婚するには定職につくしかない、そう考えた私は、当時、好きだったダイビングを生かして漁師になろうと考え、沖縄市漁協に足げなく何度も通い、潜水器 漁業をしている漁師さんにお願いをして船(サバニ)に乗せてもらうことに成功した。

 船に乗せてもらい仕事をさせてもらったのはいいが、毎日が船酔の連続で、この船酔いは実に3ヶ月間も続き、それを克服できたからこそ、今の私があるのだ と思う。そして、海という自然を相手にする職業の楽しさも切実に実感した。 
 その時、始めてこの地に住み着き、この地で生涯を過ごそう、漁業こそ私のやるべきライフワ−クなのだと思った。

 その後、やはり海で生きていくには独立しなければと思い、最初に購入した船が24フィ−トのヤンマ−のドライブ船で、潜水器漁業をやった。この船は3年 ほど使い、次が35フィ−トの同じくドライブ船だった。

001-1.jpg53キロのマグロを船から下す作者
  潜水器漁業に陰りが見え始めたのは1990年頃からだろう。赤土汚染で海の環境破壊が顕著になり、魚が取れなくなったか らである。その頃、すでに沖縄市漁協の青年部の部長をしていて、沖縄県漁協青壮年部連絡協議会の会長や1994年頃には全日本漁協青壮年部連絡協議会の理 事や、県水産業中央会の赤土等流出防止対策連絡協議会作業部会の部会長までやっていた。何故かといえば、組織として行動しなければ行政に対しての抗議や行 動が取れないと思ったからである。
 県議会や水産庁、全漁連にもになんとか改善してほしいと働きかけや陳情も幾度となく繰り返した。しかし、「亀のごとく遅々として進まぬ赤土対策」と言わ れるほど、赤土汚染に対する行政の対応は進まぬものだった。

 私らが主体となった水産団体が、2週間で5万5千人余もの署名運動を行った結果、1995年、県はようやく重い腰を上げ、「赤土等流出防止条例」を施行 したが、私らの水産サイドが当初要望した条例とはかけ離れたものになってしまっていた。
 私らがこの条例作成に対して県に要望して約束させたのは、土砂流出原因のもっとも多い公共事業にも適用できる条例であり、現在および過去の誤った工事方 法で施工された公共事業現場にも影響力のある条例のはずだった。しかし、実際に施行された条例の中身を見ると、「国、県及び市町村の地方公共団体における 事業に対しては適用除外とする」との一言が付け加えられ、汚染が出た場合は「協議する」との文語に留まってしまっていた。(これには落胆させられた)

 沖縄県はその後も、「公共事業によって環境破壊が起きることはない」とする姿勢を維持し続けたために、赤土汚染対策が常に後手に回り、更に改善が遅れた 原因にもなってしまっていた。

 1996年、大国林道建設と辺野喜土地改良事業に対して、素潜りダイビング協会の会長をしていた吉嶺全二氏の誘いを受け、土地改良事業などの公共事業に 対して違法公金支出差止訴訟をの原告団(18名)の一員となった。当時の沖縄県知事を被告として告訴したわけである。
弁護団は関西在住の大西裕子 弁護士弁護団長 ・ 藤原猛爾 弁護士副団長・ 三浦州男 弁護士 ・ 山尾哲也 弁護士 ・関根孝道 弁護士事務局長と並々ならぬ方々がボランティヤで最強の弁護団が結成された。
ついに、ずさんな公共事業で赤土汚染の責任問題を法廷で明らかにしていこうというのである。

 そして1998年に、とうとう私は荒廃する沿岸漁場を諦め、沖合いのマグロ漁に転向する決意をして53フイ−トのマグロ船を中古で購入し た。今はマグロ漁とソデイカ漁で生計を立てている。マグロ漁は1泊2日〜2泊3日、ソデイカ漁は4泊5日程度の洋上生活をする。冬場のソデイカ漁は天候の 急変が常に付きまとい、命がけの覚悟をきめないと出来ない仕事でもある。

 私の赤土汚染への思い込みは、沿岸漁業の漁師が安全な近海の仕事場を無くし、更に危険な遠くの海域まで出漁しなければならなくなってしまっていることへ の悔しさからでもある。現在、5トン前後の船で100マイルを越える操業を強いられ、危険を覚悟の操業で転覆事故も急増している。
 それでも、たまたま私のように借金してでもマグロ船を購入し、他の漁に転向できた人はいいが、そうでない沿岸漁業の漁師さんは、今でも赤土に汚染され魚 のいない海で細々と漁をしている。

 南西諸島の海は、雨が降る度に海は赤く汚染され、漁場が破壊され、魚が住み付かなくなり、沿岸漁業は荒廃の一途にある。そのことへの悔しさと、これ以上 の破壊に歯止めをかけ、沿岸漁場を再生して次の世代に残したいとの思いが、このホ−ムペ−ジを開設、維持、運営する原動力となっている。

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